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国文学会会報

特集 われらがわびすけ-同志社の歩みとともに-

わびすけということばを聞いて、同志社の前の喫茶店と思い浮かべることができない、国文の卒業生がいるだろうか。そうした人を探す方が難しいのではないだろうか。今回は、私たちになじみの喫茶店「わびすけ」の特集を組んでみた。
一月二十二日二時から、わびすけの二階で、咲子さんにインタビユーを試みた。取材は二時間を超えてなごやかな時間の流れの中で穏やかに進んだ。以下にまとめた文章は、そのときのインタビユーをまとめて再構成したものである。取材に同行してくれたのは、平井宏則、黒川拓一、渡辺千尋、谷地舘和賀子の四人である。なお、わびすけの創業者中井汲泉については、盛岡市先人記念館編「夢追って、北国-中井汲泉・創作美の世界」を参考にさせていただいた。
喫茶店「わびすけ」

中井ミルクホール

わびすけの創業者中井汲泉。本名は政次郎。明治二五年(一八九二)七月一日、父音吉、母ヒサの長男として、今出川御門前玄武町に生まれる。両親は、新島襄の八重夫人や同志社女子大学創立者デントンに仕えた。汲泉が後に美術の道を歩むことになるのは、デントンの影響が大きい。汲泉は、病弱な父を助けて、デントンの支援を受けながら、明治三十五年頃、自宅で「中井ミルクホール」を開業・経営する。これがわびすけの前身である。その当時、「中井ミルクホール」は、バラ園とミルクホールを経営していた。バラ園には黒バラが植えられ、ハイカラなミルクホールとして知られたという。ミルクホールでは当時としては珍しい自家製のアイスクリームや「いもねぎ」が評判で、同志社の学生で賑わっていたという。場所は、現在の正門の良心碑のあたりで、冷泉家から土地を借りていたそうである。その後、同志社発展のためという大学の要望に従い、場所を西寮の土地に移す。そこは現在の鳥丸通りを含めた広さの敷地であったそうである。その後、市電が開通し、区画整理の結果、現在のそう広くはない敷地になったということである。

わびすけへの道

汲泉は、同志社幼椎園の第一回生で、同志社普通学校(現同志社中学)から京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)へと進んでいる。中学時代には「鞍馬画会」に属していた。汲泉は、絵画専門学校卒業後、愛知県の美術教員として赴任。その後、一旦帰京するが、昭和四年(一九二九)に今度は盛岡中学校の図画教員として赴任する。汲泉は、「雪景色もようござんすよ」の一言で盛岡行きを決意したそうである。その間、中井ミルクホールは、親戚の世話で続けられ、戦時中は「中井食堂」として営業を続けた。汲泉は、盛岡で岩手の民芸を全国に普及させるべく旺盛に活動する。昭和十八年に教職を退き、画業一筋に適進するが、その生活は経済的にも厳しいものとなっていった。その間、大津絵に惹かれていた汲泉は、身近で温かい南部絵の創出を企て、染め絵の技法に至りつく。汲泉の岩手の文化活動に対して、昭和三十年に「第九回岩手日報文化賞」が贈られる。そして、昭和三十三年、汲泉は長年過ごした岩手をあとにして、京都での創作活動を望み、家族を連れて帰京する。帰京した汲泉は、中井ミルクホールを改築し、工芸喫茶「わびすけ」を開店する。わびすけの命名は、汲泉の手になるもので、茶室の傍らにひっそりと植えられている、清楚で可憐な茶花「わびすけ」からとられた。

わびすけの人々

汲泉は画業一筋に生涯を送る。そのために、わびすけの経営はご家族の手に委ねられていた。汲泉には五人の子供がいた。長男は汲泉の期待を一身に集めながら、芸大在学中に学徒出陣で戦場へ赴き戦死を遂げる。また、長女はアメリカヘ嫁ぐ。次女の裕子さんが、盛岡時代から汲泉の意志を継いで、陶芸の道に進む。現在、わびすけに並べられている茶碗や壷の焼き物は、ほとんどが裕子さんの作品である。次男のつとむさんが家業を継いで、裕子さんと三女の咲子さんの三人がわびすけの家業を切り盛りしてきた。裕子さんには加奈子さん、由奈子さんというお嬢さんがあり、加奈子さんにはお子さんがいらっしゃる。わびすけの次代はどなたが継ぐことになるのかはわからないが、中井ミルクホール時代から数えると、わびすけは親子三代で支えられてきたことになる。
 
わびすけに並べられている茶碗や壷
わびすけの人々

汲泉の路傍サロン

わびすけには、当初、一階に汲泉の画廊が設けられていた。汲泉は、喫茶店が客で賑わうようになると、客を入れるために画廊を追い出されたそうである。そんなとき汲泉は、画廊の前の壁に寄り掛かって、市電を眺めて立っていたそうである。何時からというでもなく、誰彼というではなしに、汲泉の横に並んで、大学の教員があるいは芸術家達が集まって、市電を眺めては色々な話題で盛り上がるようになったそうである。芸術談義に花が咲き、楽しい語らいの一時を過ごしたそうである。汲泉は一生涯、画業を通した人であり、喫茶店はすべて家族の運営であった。そんな彼が、店の繁盛で追い出されてふっと寄り掛かった壁際が、時ならぬ文人サロンとなったのである。

いもねぎの味

いもねぎは中井ミルクホールの頃からメニューにあったそうである。汲泉の画学生時代の考案であるという。じやがいもとタマネギと挽き肉を卵でとじあわせた、わびすけの名物である。七十年前後の在学生にはほとんど縁のないメニユーである。これが復活したのは、しばらくしてからである復活したときに富山からわざわざいもねぎを食べるために、家族を連れて上京された一家があったそうである。「家族に食べさせたくて、みんな引き連れてきましたよ」と、八十歳ぐらいの卒業生がなつかしそうにおっしやったそうである。そういえばこんなこともあったそうである。貧しかった学生さんには注文に応じていもねぎを作ったそうである。肉抜き、卵抜きの、あるいは芋だけのいもねぎであったそうだ。同志社の学生を大切にして下さったわびすけの心尽くしに胸を打たれる。

いもねぎ

二階のざわめき

今は、わびすけの二階が使われることは少なくなった。昔はわびすけは二階しかなかった。二階の木製の階段をあがってあのなつかしいレトロな雰囲気のドアを開けると、漆喰と黒い柱が調和した落ちついた雰囲気の部屋が広がっていた。窓際に寄ると、市電の今出川電停が見える。そのころのわびすけのマッチには「今出川電停前」とある。このマッチのデザインは裕子さんであった。図書館のできる前は大学のキャンパスがよく見えたそうである。物干しにあがると、五山の送り火が全部見渡せた頃の話である。階段をあがって振り返ると、そこにはカウンターがあり、奥の段違いのフロアにテープルが並んでいた。トイレの横には今も変わらず斎藤清の木版画が掛かっている。
2階のカウンター
2階のカウンター

2階
2階

紛争の時

大学紛争の当時は、わびすけにまで投石が届いたという。学生が逃げ込んできて、はからずもその学生を匿うことになったこともあるという。警察が訪ねてきたときにも客ということでごまかしたこともあったという。

議論好きの学生

ともかく、昔の学生は議論好きだった。なにかといっては、わびすけに集まって騒々しく議論をしていた。どこのテーブルもやかましかったので、どこに迷惑をかけるというわけでもなく、大声でやっていた。わびすけに入り浸っていた学生も多く、ここから講義に出かけては、さも当然のような顔をして、また戻ってきては代金を払いもせず、堂々とおしやべりに参加し、強者はお水まで頂戴していた。

わびすけの遺物

わびすけの歩みは、同志社の歩みそのものでもある。そこにはさりげなく、同志社ゆかりの品が残されている。そんな一端を紹介したい。
こんな人形、あったかな
こんな人形、あったかな
わびすけの遺物
わびすけの遺物

旧大学院の手摺飾り

現在の大学図書館が建つ前に、古い木造の三階建ての建物があった。その建物は大学院の施設として利用されていたが、図書館の建設とともに解体されることになった。わびすけの皆さんもなにか記念の品をと探されて、階段の手摺についている飾りを手に入れられた。それがわびすけの二階へ通じる階段の手摺についている、欄干型の手摺飾りである。階下の両側に二つ、階上右側に一つが現在も残っている。

旧大学院の手摺飾り

デントン氏のテーブル

中井ミルクホール当時から汲泉の父音吉と母ヒサは新島とデントンに仕えていた。そのときの名残として、デントンの使用したテーブルが現在も残されているという。かつて、大学に寄贈するという話があったそうであるが、意外なことに、大学はそれを遠慮したという。

わびすけの三つの井戸

なんとわびすけには三つも井戸があったという。現在も一つは残っているのだそうである。これは驚きである。わびすけの天井には冷気の吹き出し口があるが、これは井戸の冷水を使った冷房装置の名残だそうだ。

わびすけの思い出

*わびすけの思い出を卒業生の方々に綴っていただいた。
「切り窓」の陽光 <72年修了生 生井武世>
あの頃の僕にとって、「わびすけ」は生活の場そのものだった。もとはと言えば、先輩のMさんに連れられて出入りし始めたのだが、僕にとっては、そこは初めて知る「大学」だったような気がする。「わびすけ」では、Mさんにずいぶんと本を読むことを奨められた。今思ってみればとんでもない買い被りを受けていたのだろうが、西郷信綱氏の『日本古代文学史』、永積安明氏の『中世文学の成立』、広末保氏の『元禄文学研究』、『近松序説』、とりわけ近藤忠義氏の『日本文学原論』などはレクチュアーを受けたせいか、今も鮮やかに蘇る。北関東の田舎からぽっと知る人もないキャンパスに来て、これらの本と出会った僕はすっかり自信を喪失してしまった。「わびすけ」の階上の南側の部屋の西側明かり取りのための小さな切り窓の下の席が一人で行くときのお気に入りの席だった。たった一杯のコーヒーで長時間居座る僕に、「わびすけ」は人も雰囲気も暖かった。研究会のグループの打ち合わせ、里井先生の講義やゼミの後にもよく「わびすけ」に行った。僕は専攻の違いから一周り外にいた学生だったが、先生はいつも声をかけてくれ、誘ってくださった。先生はきまって僕らの分までコーヒー代を支払い、次の講義のために先に出て行かれた。先生と行くときはボーリングのスコアの話であり、信州でのひと夏の思い出話であったりして、勉強の話はあまりした覚えがない。その頃先生は、夏は信濃森上の民宿に滞在されて、『謡曲文学』や『謡曲百選』の原稿を準備されていたのだと思う。僕らはなけなしのアルバイトのお金をつぎ込んでは、何日か邪魔をしに出かけ、先生の車で、遠くまでコーヒーを飲みに出かけた。連れて行ってくださるのは、きまって「わびすけ」のようなお店だった。ミルク入りのコーヒーの香り、味わい・…・。「わびすけ学派」「里井学派」などとあだ名されながら通いつめた「わびすけ」は、そのまま僕の学生時代の思い出に重なる。後年、先生の死に接し、直前に遺言のように諭された言葉を噛みながら、呆然と過ごした切り窓の下の席での数時間が、僕の「わびすけ」時代への訣別の時だったのかもしれない。切り窓から射す、西に傾いた陽光が、その時はとてもせつなく目にしみた。
ワビスケ通信 <77年修了生 生形貴重>
一九六○年代の末に大学に入学した私たちの世代には、共通したいくつかの風景がある。バリケードで堅く閉ざされたキャンパス。飛び交う「ナンセンス」という怒号と、壇上につるし上げられた教員たちの姿。キャンパスを取り囲む警察の機動隊と装甲車の群れ。複雑な気持ちでそのころを振り返ると、そんな風景の片隅に、自分とは何かを真剣に問いつめていた自身の姿が浮かび上がってくる。ワビスケの二階のテーブルから、格子窓の向こうに今出川キャンパスを見つめる自分の姿が、古ぼけてセピア色にあせた写真のように。テーブルの上には、白いコーヒーカップと、日本古典文学大系『平家物語』上下。当時は、既成の学問やその他の制度を根底から否定してかかる時代だった。なにも知らずにのほほんと入学したノンポリの私でさえ、もうすぐ安保の改定が迫ってくる、権力の弾圧の中で大学管理法案が国会で通過する、太平洋ベルト地帯に革新自治体が増えつづけ、人口の半数を超えようとしている、といった社会状況には、得体の知れぬ大きなうねりの存在をどう受け止めるのかを迫られていたように思う。「国文専攻」という社会から最も離れたような学問を選んでしまった故か、状況へのコンプレックスは切実だった。
ワビスケは、そのころの国文の学生のたまり場だった。ワビスケに行けば、誰か仲間に会える。キャンパスを奪われた私たちにとって、ワビスケが小さなキャンパスだった。コーヒ-一杯が六○円だったと記憶している。ちなみにバスは、四条烏丸から今出川まで三○円、市電が二五円だった。すっかり世界は変わってしまった。それでも、ワビスケのドアーを開ける瞬間に、亡くなった恩師里井陸郎先生が偲ばれる。癌の手術のあと、「このミルクにコーヒ-一滴入れてんか」と注文された姿が忘れられない。山ほどの想い出に埋まりながら、今は学生の出席力-ドを整理している。あのころからずっと、ボブ・ディランの"BROWING IN THE WIND"が頭から離れないが、"WIND"の意味がやっと分かるようになった。ワビスケの椅子の上で積み重ねた人生にも重いものがある。

コーヒ-
見えない横断歩道を渡って <89年修了生 西田喜久夫>
私「どっかでごはん食べながらしよか。どこがええ?」後輩「どこでもいいです。」私「レナか、ローレンか、わびすけか。」同志社大学の西門を出たところには、同志社大学生にしか見えない横断歩道がある。交通法規を無視した行為とお叱りを受けるかもしれないが、確かにある。その横断歩道を渡ると行きつけの喫茶店が何軒かあった。その中でも「レナ」と「わびすけ」はよく通った。だが、この二つの喫茶店を、私は異なった目的で利用した。「レナ」はママとも親しくなり(残念ながら「レナ」はもう店じまいをし、また昨年ママはお亡くなりになりました)、いろいろ愚痴を聞いてもらったりダラダラと時間を過ごすための喫茶店であり、どちらかというと「国文生のたまり場」的存在だった。ここにくれば、探している先輩や友人の行方を知ることもできたのである。それにひきかえ「わびすけ」は、そういう目的で利用できるような場所ではなかった。私にとっては研究会の例会のための資科を作ったり、予備討論をするための場所だった。「わびすけ」の入口付近には「名物いもねぎ」と書かれた色紙が飾ってあった。木枠の入口を入ると左手に席がある。いくつかのテーブルに囲まれるように金魚(コイだったか)の入った大きな水槽がある。食事をすることだけが目的の場合は、たいていこの一階に席を取り、「いもねぎ」か「カレーライス」を頼んだ。「いもねぎ」には少し塩辛いすまし汁とお猪口に入ったお債物、「カレーライス」にはデミコーヒーがついてくる(今でもそうなのだろうか)。予備討論をする時は、二階の奥を確保するのが常だ。一段高くなったところに数席あるがその中の一つを使う。私が一回生のとき初めて予備討論をしてもらったのもこの席であるし、私が二回生になって初めて「後輩」の予備討論をしたのもこの席である。砂糖が溶けずに残ったアイスコーヒーを飲みながら予備討論をして、レジュメを作り、もっていったレポートを先輩たちにことごとく潰されて、そしてまた「わびすけ」に行って……。決して私の同志社大学の生活の中で重要な位置を占めていたものではない。だが少なくともそこにはいくつかの大切にしたい思い出もある。一九八六年卒業生の国文学専攻の卒業記念品も「わびすけ」でお願いした。それに、彼女と初めて行った喫茶店もここである。「わびすけ」は私にとってはキーワードだ。その時を思い出させてくれるキーワード。そのキーワードを得るために、今も多くの同大生が見えない横断歩道を渡っているのだろうか。

わびすけ
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